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日本を代表する名レーシングライダー、平忠彦の功績とは?

日本でもっとも有名なライダーの一人、平忠彦

平忠彦(Tadahiko Taira)は1956年生まれ、福島県南相馬市原町区(当時は原町市)出身のレーシングライダーです。これまで世界で活躍した日本人レーシングライダーはたくさんいますが、知名度と功績の大きさにおいてはこの平忠彦はトップクラスの存在といえるでしょう。かつて彼の名前を冠したゲームソフトが発売されたこともあります。

そんな平忠彦がレーサーとしての活動をはじめたのは意外と遅く、19歳がスタートとなっています。しかし当初から才能を発揮し、1980年には全日本ロードレース選手権の国際A級350ccクラスにおいてチャンピオンを獲得しています。

さらに500ccクラスにクラスアップしてからは、1983~85年まで3年連続で全日本チャンピオンを獲得。85年には鈴鹿8耐レースにおいて終盤までトップを走行しながら残り30分で無念のリタイア、その劇的な幕切れはある意味優勝以上に大きなインパクトを残しました。

 

活躍の舞台を世界に移す

このように80年代半ばには国内に敵なしの状況になっていた平忠彦は、1986年からロードレース世界選手権にフル参戦をはじめます。同年には250ccクラスで優勝1回を記録、1988年と89年には日本GPにおいてポールポジションを獲得するなど世界の舞台でもその才能が通用することを証明しました。そして1990年には因縁の鈴鹿8耐レースにおいて念願の初優勝を記録、これが彼のキャリアのピークとも言える瞬間となりました。

そして1992年に35歳で現役を引退。その後はオートバイショップを経営しつつイベントや講演会などバイクの普及・啓蒙のための活動を精力的に行っています。2008年にはヤマハレーシングのチーム監督に就任するなどたびたび現場に立つ機会も持っています。

さらに2023年3月には文部科学省から「令和4年度スポーツ功労者」として敬老されました。これは日本のモーターサイクルスポーツの普及振興への功績が評価されてのもので、改めて平忠彦の残した功績の大きさが知られる機会にもなりました。

数々のドラマを生み出してきたダイナミックなライディングスタイル、一方で穏やかな人柄から現役時代から多くのファンを獲得していました。またマシン開発能力でも高い評価を得ています。彼をきっかけにバイクレーシングに興味を持った人も多く、日本のモータサイクルスポーツへの絶大な功績はやはり大きなものと言えるでしょう。

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